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アメリカに住んでいて大変なこと④差別・偏見

本記事は、「アメリカに住んでいて大変なこと①お金」「②食べ物」「③移動」の続編です。まだ①②③をご覧になっていない方は、そちらもどうぞご覧ください。

④差別・偏見

アメリカに差別があることは、アメリカに一度も行ったことのない方々でも知っている常識です。様々な人種や異なる背景の人々が集まっている社会として、ある程度は不可避な、仕方のないことかもしれません。しげのような、日本人の両親のもとに日本で生まれ日本で育った人がアメリカで生活するにあたって大変なことは、もちろん差別や偏見を直接的に受けることがあるということがひとつなのですが、本記事でしげが書きたいことは、差別や偏見をめぐるもう少し複雑なアメリカ社会の実態です。差別や偏見にまつわる経験談やしげの考え方は、本ブログでこれからも別記事で書き続けていきたいテーマなので、本記事はそれらの導入的な内容になり、これまでの三つの記事と比べると、具体性に欠け、抽象的な話になってしまうかもしれません。

まずシンプルに、しげはアメリカで差別を受けることがあるかということですが、しげの場合、「差別」と聞いて多くの人がまず思い浮かべるようなあからさまな差別を受けることは比較的少ない方ではないかと思います。差別のなかには、差別と断定していいのかよくわからないけれど、これはきっと差別のような気がする、というくらいの差別がありますが、世の中の差別のほとんどはそういうものだと思います。一度、自宅近くのバス停で浮浪者のような男の人が“Jap”と連呼していたことがありますが、もしそれがしげに対する差別的発言だったのだとしたら、それがしげがいままでに経験した最も直接的な差別です。しかし、しげは個人的には、それはしげに対する発言ではなかったのではないかと思います。彼は、しげがバス停に到着するずっと前からひとりでぶつぶつと何かをしゃべり続けていたし、しげが日本人だと見た目だけで判断するのは難しいだろうと思うからです。そもそもしげの方を見ていたかどうかも怪しいです。

このような曖昧な経験が一番の直接的な差別だというくらい、あからさまな差別を受けることは少ないです。差別が少ないことには、しげの見た目や性格が影響していると思うので、ほかの日本人の方でもっとあからさまな差別をたくさん経験している方はいらっしゃるかもしれません。どの人種や国の人々が嫌われてしまいやすいかということは時代によって変化すると思うのですが、特にコロナウイルスの世界的な蔓延が始まって以降は、コロナウイルスの起源が中国なのではないかという疑いが原因で、どうしても中国人が差別の標的になりやすくなりました。しげは、塾講師として日本で働いていたときに、生徒たちからよく「あだち充の漫画の主人公っぽい」と言われたのですが、どうやら白人の人たちから見てもしげは中国人ぽい見た目ではなく、とても日本人らしい見た目なようです。いままでにしげのことを中国人ではないかと想定してしげに接してきたのは中国人の人たちだけです。

しげはたまたま運がよく直接的にひどいことを言われたことがないだけですが、妻はカナダで何度も差別的な目に遭っています。妻がしげよりも中国人に見えるということではないのですが、日本人の多くがヨーロッパの国々の区別が曖昧なのと同じように、北米の多くの人たちにとっては中国人と日本人の区別も難しいですし、そもそも何人かというのは見た目だけで必ず区別できるようなことではありません。たとえば、妻がオタワで散歩していたとき、すれ違いざまに鼻をつまむようなジェスチャーをする老婆もいたし、“chinois”とつぶやいていくるおじさんもいました。また、妻はオタワの大学院に在学中、しばらくの間、大学教授の夫婦の家に住まわせてもらっていたのですが、その大学教授の女性にも、「あなたのようなアジア人のせいで世界中がコロナウイルスで大変だ」ということを言われたそうです。この女性はあまりにも差別的でいじわるな人だったため、しばらくして妻はほかの場所に引っ越しました。

このような例は、しげと妻以外の人たちからも体験談を集めれば無数にあると思います。しげも妻も、肉体的な暴力を受けたことがないだけ幸運です。しげは比較的このような差別を受ける機会が少ないとはいえ、このようなあからさまな差別を受けることは、外国人がアメリカで生活するうえでで最も大変なことのひとつです。しかし、しげは、もっと微妙な差別、「これは差別じゃないのかな」と少し疑う程度の差別や、他国や他文化に関する理解のなさや偏見から無意識に起こる差別、そして差別に対するアメリカ人の意識や態度、対策など、こそがあからさまな差別と同じくらい問題であると考えています。

微妙な差別や無意識の差別に関する具体的な経験はこれから別記事で少しずつ紹介していきたいのですが、このようなちょっとした差別は、多様性のある社会の宿命として、いたるところに潜んでいます。これはつまり、「悪気のない差別」と言い換えられる場合も多いです。相手に悪気があったとしても、相手はただ「しげが気に入らないから」しげをいじめようとしているだけであって、「しげが日本人であるから」しげをいじめているわけではない、つまり差別ではない、と少なくとも本人は思っていることが多いです。しかし実際には、そのようなしげと相手との間の誤解がしげが日本人であることに起因していることがしげにはわかる場合があります。そのような例を微妙な差別や無意識の差別に含めます。このような差別は、日本人が外国人に対してしてしまっていることも多いです。それについても別記事で書きたいと思います。

正直言って、しげがウィスコンシン大学マディソン校(UWマディソン)にいたときはこのような微妙な差別でさえ感じたことは一度もなかったのですが、テキサス大学オースティン校(UTオースティン)に入学してから頻繁にこのような差別を感じるようになりました。マディソンにいたときから、自分は生活のほとんどを大学のコミュニティのなかだけで過ごしていて、そのコミュニティに守られているから差別などの嫌な経験を一度もしていないだけであって、アメリカ社会全体の平均はこんなに生易しいものではないのだ、と思っていました。それでも、自分がこれから先もアメリカで生活を続けるとしたら、それは基本的にいつでも大学というコミュニティの一員としてだ、と思っていたので、それなら大丈夫だろうと思って、博士課程もアメリカの大学に進学することにしたのです。アメリカ人が英語しかしゃべれないことを皮肉る有名なジョークがありますが、大学にいる限り、少なくとも人文系の大学院生や教員のなかでは、一言語しか話さない人を探すことの方が困難ですし、大学にいる人々のほとんどが様々な文化や言語への理解や敬意を持っていて、人種や宗教や性別によって差別をしようなどという発想を少しでも持つ人を見つけることのほうが困難だと楽観的に考えていました。しかし、テキサス州やオースティンの地理的な特性なのか、それともこの大学の性格なのか、オースティンに来てからは、意外と反例が多いことに気づいたし、頻繁に差別を感じるようになりました。テキサス州には差別的な人が多いなどと言えばそれこそ偏見になってしまうのですが、UTオースティンは、少なくともUWマディソンと比べて、学生も教員もスタッフも、アジアに関心や理解のある人が明らかに少ないということはしげの個人的経験から思います。しげがUTオースティンに入学したのはコロナウイルス以後ですから、アジアからの留学生そのものの数はそのせいで特に少なくなってしまったかもしれません。

UWマディソンには全米屈指の日本語プログラムがあり、日本に限らずアジア研究が盛んで、学生にも教員にもアジア人やアジアに興味や理解のある人たちが多く、しげもそのような人たちに囲まれて過ごすことが多かったので、しげを差別するような人たちがいなかったのは当然なのですが、UTオースティンもある程度は同じようなものだろうと簡単に考えてしまっていました。UTオースティンは場所柄、南米からの留学生や、アメリカ人であっても南米にルーツを持つ学生や教員、スタッフが多いです。これは別に差別ではないですが、大学の奨学金なども、メキシコ人や南米出身の学生だけが応募できるものが大量にあり、アジア人向けのものはほとんどないです。いずれにせよ、具体的な体験談はひとつひとつ別の記事で書きたいのですが、妻が受けたようなあからさまな差別でないにせよ、アジアや日本に対する理解や共感がなさすぎることからくる微妙な差別を、オースティンでは頻繁に感じています。

補足なのですが、Wikipediaに載っていた2022年のデータを見ると、UTオースティンの学生のうちアジア人は23%で、UWマディソンは8%になっています。テキサス州全体のアジア人がおよそ5%で、UTオースティンの約九割の学生はテキサス州の内部から来ていることを考えると、ここまでアジア人が多いのはおかしい気がしますし、しげがキャンパスを歩いていて感じることと全く違うのですが、しげはもちろん大学のほんの一部のコミュニティにしか属していないですし、大学全体を把握できていないのだと思います。少なくともしげ個人としては、マディソンとの比較で、オースティンに来てアジア人の少なさに驚きました。コロナウイルスのせいかもしれないと思っていましたが、現在でも最初の印象はそれほど変わっていませんし、2022年の統計でアジア人が23%もいるというのだから不思議です。中国からの留学生はコロナウイルス以降確実に減っているはずだと思うのですが。また、日本人がマディソンよりオースティンで少ないことは確実で、UWマディソンのJapanese Student Associationは多くの日本人学生によって運営されていて、そこに日本に興味のある多様な学生が集まっていた感じでしたが、オースティンにある似たような団体は、しげは直接関係を持ったことがありませんが、聞いたところによると、日本人はひとりもいないそうです。Wikipediaのデータが正しければしげの直感は外れているのですが、アジア人そのものは少なくても、マディソンはアジアの言語や文化を勉強や研究している学生や教員が多く、オースティンではラテンアメリカの言語や文化が優先されているので、アジアにまつわる勉強や研究をしている学生や教員は少ない、というしげの見立ては変わりません。基本的にブログではしげの個人的な経験に基づく主観を紹介するのでデータは見ないのですが、今回は少し気になったので調べてしまいました。

ここまでアメリカに存在する差別そのものについて述べてきたのですが、アメリカの差別や偏見についてしげが最も問題だと思っているのは、差別に対するアメリカ人の認識や態度、向き合い方です。しげが初めてアメリカを訪れたのは2014年で、長期滞在するようになったのは2018年からなので、それ以前のアメリカのことは直接的には知らないのですが、おそらくちょうどしげがアメリカと直接的に関わるようになった頃から、アメリカは以前にも増して執拗に「差別」を意識するようになってきたと思います。例えば黒人差別の問題などはアメリカ建国時から現在までずっとアメリカに存在し続けている問題で、何度もそれに関する大きな事件や運動、制度の変革などが起こっており、アメリカ人はこれまでもずっと差別を意識せざるを得ない状況にあったはずです。しかし、ここ最近はそれにさらに輪をかけて差別に気をつけなければならない状況になってきています。これは、日本でも何かと「コンプライアンス」を気にしなければならなくなってきたこととパラレルで、日本がアメリカに影響を受けているせいでしょう。

このことがどれだけ個々人の生きづらさや不都合につながるのかはわかりませんが、いまのアメリカ、特に大学では、差別を強く意識し過ぎるあまり、様々なところでその弊害が出てきています。これについては、しげがこのブログで最もお話ししたい話題のひとつなので、これこそこれから多くの記事で詳しく述べていきたいのですが、ここではそのダイジェストのみ紹介したいと思います。

まず、これは日本の方々にとって少し意外に思うことかもしれませんが、いまのアメリカの大学では、教員が差別の糾弾を恐れるあまり、学生に少しでも否定的な言葉をかけることを一切しない場合が多いです。学生がどんなレポートを提出しようと、授業内でどんな発言をしようと、全くしゃべらない物静かな学生でも、どんな人が何をしようと否定的なことは言わず、まず褒めるのです。これは人間関係を築くアプローチとしてある程度は正しいとしげは思いますが、度を超えている場合が多く、もはやシュールなほどにしげには見えます。例えば白人の教師が黒人の学生に何か否定的なことを言ってしまうと、実際にはその学生の人種とは全く関係のない発言だったとしても、黒人差別であるとして通報されてしまうかもしれません。そのようなことを恐れるがあまり、誰に対しても否定的なことを言えなくなってしまっているのです。もちろんきつい言い方や悪口のような発言はいけないのですが、きちんとした根拠に基づく論理立てた批判は学生にとって必要なことだと思うのですが、それすらも避けている教員がとても多いように感じます。しかし、意外と「差別音痴」、差別してると気づきもしないで差別しているような人は、しげがいまいるUTオースティンには多いし、どこにでもいると思います。

もうひとつの問題は、アファーマティブ・アクションなどの制度やそのような風潮そのものについてです。アファーマティブ・アクションとは、歴史的にずっと存在してきた差別を是正するために積極的に逆差別を行うことですが、アメリカの大学では黒人の大学生を増やすために1965年からアファーマティブ・アクションが行われてきているようです。もともと賛否両論激しい制度ですが、最近ではアファーマティブ・アクションを廃止する方向性が強いようで、UTオースティンでも最近何度か大学の入試制度が違憲ではないか最高裁で議論されているようです。このような制度に関する詳細や歴史についてしげはいまのところ十分に詳しくはないので、アファーマティブ・アクションの是非そのものについてここで議論することはできないのですが、しげの個人的な経験レベルでこのことに関連して疑問に思うことはあるのです。UTオースティンの黒人の割合はテキサス州全体の黒人の割合と比べて依然として低いようなので、そのことを考えれば、アファーマティブ・アクションも悪くないのかもしれません。しかししげは、一研究者として、学生よりも教員のことが気になってしまいます。これは特にしげの学部の話になってしまいますが、やたらと黒人の教授ばかりが新しく採用されて入ってきます。黒人ばかりが教授として採用されやすいのはアメリカ全体でそういう風潮があるようで、むしろ白人たちが差別されて仕事にとてもつきづらい状況にあるようです。黒人の教員を増やすことで多様性のアピールになり、大学の対外的な地位を上げることに貢献しているのです。しげが一番疑問に思わざるを得ないのは、科学系の分野ではどうなっているのか知りませんが、人文系の分野では、黒人は黒人に関する研究をしている人たちがほとんどなことです。しげも日本のことを研究している日本人ですし、自分のルーツに興味を持つことは当たり前のことだと思うのですが、それにしても、みんな揃って黒人がいかに差別されてきたかの歴史のようなものを研究していて、とても多様性があるとは思えないのです。かなり前からポストコロニアリズムが流行っていて、白人の研究者も含めて、歴史的にこれまで抑圧されてきたような地域を扱って脱西洋中心主義を図る研究をしている人が多いです。それは大変結構なことだと思うのですが、しげもよくこういう研究をしている人たちの発表を聞いていて感じるのは、ほとんどの人が、研究者キャリアのための戦略として単に流行りだからそのテーマを選んでいるのが見え見えなのです。特に白人でそういうテーマを選んでいる研究者は、もちろん全員がそうだというわけではないですが、「ポストコロニアル」の研究であるはずなのに、研究に向かう態度がまるでコロニアリストのものではないか、と思ってしまうことが多いのです。こればかりはひとつひとつの研究の個別例を語ること以外によっては詳細に語れることではないのですが、しげの学界の全体的な印象です。まとめると、しげは、差別や帝国主義などのいまや「過ち」とされている歴史の是正を進めたいがために、流行となっている研究テーマをただ流行であるがために、自分の興味や能力の範囲外にも関わらず選択している研究者があまりに多いことと、そのような研究者を積極的に採用する大学を問題に感じています。しげは、こういう匂いのする研究は個人的に直観的に毛嫌いしてしまうことが多いのですが、それこそ偏見なので、できるだけひとりひとりの研究者を見ようと心がけてはいます。建築史は、ほかのあらゆる人文系の分野がそうかもしれないですが、差別や帝国主義の研究ととても密接に関わっています。

最後に問題として挙げたいのは、「私は差別に反対です」という偽善的な態度です。たとえば、コロナウイルスが出始めた時、アジア人に対するヘイトが高まり、それと同じだけStop Asian Hateの機運が高まりました。差別は悪いことであり、それに反対することはいいことです。それは大前提としてしげも認めるのですが、それにしても、あまりにも杜撰な反差別運動だったのではないかと思うのです。アジア人だろうがなんだろうが、そういう運動をする人たちは差別ならなんでも反対だし、しげもそれはわかります。だから彼らの論理としては、Stop Asian Hateに参加するのもBlack Lives Matterに参加するのも当たり前でしょう。これについてもしげはあまり詳しくないので、この運動全体がどうだったかということについては話せないのですが、これに関するしげの個人的な経験をご紹介したいです。まずこの頃、何か事件が起こるたびにコロナウイルスによるアジア人差別に結び付けられて報道されていました。これは黒人差別の場合でも同じだと思うのですが、個々の事例が、それが本当に人種差別によって引き起こされた事件かどうか十分に確かめられることなく、被害者がマイノリティだったというだけで人種差別として報道されてしまいます。すると、「差別警察」の方々が当然黙っておらず、大きな運動に発展してしまうのです。コロナウイルスが流行していたときにも、アジア人が襲われるなどの事件が毎日のように起きていたのですが、しげが特に強く覚えているのは、韓国系の被害者を含む複数人が殺害された事件でした。その事件では、犯人自身はコロナウイルスによるアジア人ヘイトによる犯行だということを否定していたのですが、多くの人がこれはアジア人ヘイトによるものだと決めつけていました。UTオースティンもそのように決めつけていて、学長はTwitterで事件についての声明文を発表し、International Student and Scholar Services(ISSS)のスタッフは留学生全員にメールを送って、このような事件が起きて悲しい、アジア人ヘイトをやめさせなければならない、私たちは全てのアジア人学生や教員、スタッフのために立ち上がり、できることすべてをする、日頃の生活で不安なことなどがあればいつでも相談してほしい、最近はアジア人スタッフ、教員、学生たちの話を聞く機会を積極的に持つようにしている、というようなことを書いていました。これを読んでしげは腑が煮えくり返り、ISSSの人に抗議のメールを送りました。なぜこのようなメールが気に入らなかったのかは簡単には説明できない気がするのですが、まずしげには、Asian hateなどというものが存在するとは思えませんでした。あったのはChinese hateです。実際中国人だけでなくほかの多くのアジア人が差別の対象になり時には暴力を受けることもありました。しかし、この差別の原因は明らかにコロナウイルスで、コロナウイルスが中国の武漢から始まったと疑われていることにありました。それなら、これは本質的にChinese hateであって、Asian hateではなかったのです。多くの日本人はヨーロッパの国々の位置もわからないと思いますし、アフリカや南米ならなおさらです。それは多くの北米人たちにも同じで、アジアの国々の区別なんてわかりません。人の見た目もみんな同じに見えるかもしれません。だからアジアのいろいろな国々の人たちが差別の被害にあってしまいました。でも今回の差別は原因のはっきりした差別で、明らかに中国人に矛先が向けられたものでした。アジアと言えばインドも含まれるとても広いエリアです。アジア人が嫌われていたのなら、インド人も嫌われていたのでないとおかしいです。そういう意味で、Asian hateという言葉は間違っていると思うのです。Chinese hateと言ってしまうと、その言葉を発すること自体何か中国人を差別しているような感じになってしまうと思ったのかもしれないし、中国人以外の多くの被害者を取りこぼしたくなかったのかもしれません。それでも、Asian hateという言葉を使うことによってそのAsianの一員に勝手に含められてしまったひとりとして、しげは不服でした。日本はたしかに、コロナウイルス発生の初期段階で、ダイヤモンド・プリンセス号での対応が悪かったせいで世界にコロナウイルスを広めてしまったという批判があり、これを理由に日本をターゲットにした差別もあったことと思います。しかし、このことによる日本への批判は、その後中国に批判が集中したことによって、かなり初期段階におさまったのではないでしょうか。おそらく、これはしげの推測の域を出ませんが、コロナウイルスが原因で差別を受けた日本人は、日本人を狙ってターゲットにした差別を受けた人たちよりも、中国人と間違えられたりアジア人らしい人全員をターゲットにした嫌がらせによって被害を受けた人たちのほうが断然多いのではないでしょうか。しげは運良くたまたまこのような被害にあわなかっただけですが、この頃、自分もほかの日本人も、アメリカで嫌われているとはしげは感じていませんでした。ニュースを見れば、どうやらアジア人がアメリカで嫌われているらしいということはわかります。でも、実際に生活していて、自分やほかの日本人がコロナウイルスのせいで嫌われているなと感じたことは一度もありませんでした。それなのに、ある日いきなりメールを受け取って、あなたたちは嫌われているから私たちが話を聞いてあげるよと言われたときにはびっくりしました。あなたたちに話したいことなどあるわけがないだろうと思いました。しげは、差別に反対する人たちが、差別している人たちと同じくらいアジアのそれぞれの国やその文化に興味がないことが一番の問題であると思います。見た目で中国人か日本人か100%の正答率で判断することは不可能です。ですが、アメリカ人ひとりひとりがもう少し中国と日本、その他のアジアの国々の違いに興味を持つようになれば、もう少し差別の被害者を減らせたと思うし、もう少しましな反差別運動ができたのではないかと思うのです。コロナウイルスが武漢の研究所でつくられたかどうかなど、しげにはわかりませんし、これはどうしようもありませんが、起きてしまった差別への対応の仕方は、もっとましなものがあり得たのではと思うのです。それから、「アジア」という枠組みそのものにしげは疑問しか感じません。岡倉覚三は「アジアはひとつ」と言いましたが、「アジア」というひっくるめ方が意味を持つことはかなり少ないように思います。多くの日本人は、自分がアジア人だとは思っていないのではないでしょうか。それは、日本が島国であり国境をほかの国と陸で接していないことが大きいと思うので、ほかのアジアの国々ではもしかすると事情が少し違っているかもしれません。でも、たとえば中国人などは日本人とはとても異なる人々だと思っている日本人が多いと思います。日本人と中国人が似たものになるのは、アメリカなどのアジアではない外国にやってきたときです。だから、アメリカなどのアジアではない国にいるアジア人は、自分のことをアジア人だと認識している場合が多いと思います。特に二世以降の人たちがそうです。日本では、「アジア」や「世界」と言ったら「日本」は含まれないし、「動物」と言ったら「人間」は含まれないし、「宇宙」と言ったら「地球」は含まれないのです。それもあって、しげはアメリカでは自分がアジア人だと思われることを認識しつつも、生まれ育ちの自然な成り行きから、自分が日本人だとは思ってもアジア人だと思うことはないので、Asian hateというのがあってあなたもその対象に含まれますよと言われたら黙っていられないのです。

最後に、いままでの話と無関係なのですが、もうひとつ差別に関して外国人が大変なのは、「差別してほしいのにしてくれない」という場合もあると思います。たとえば、英語しか話せないアメリカ人が日本を訪れたら、そのアメリカ人は日本で差別されまくりでしょう。それはいい意味でも悪い意味でもありますが、ここではいい意味に焦点を当てたいです。この人日本語話せないなと勝手に見た目で判断されて、英語で話しかけられます。日本では、見た目が日本人らしくない人たちはみな日本語を話せないのが当然だと思われているからです。しかし現代のアメリカでは、実際にはかなりの割合の人たちがスペイン語しか話しませんが、誰であろうと英語を話すのが当然だという思い込みがあるので、どんな見た目であろうと、この人は英語が話せないかもしれない、などと推察されることはありません。外国人に対しても、アメリカ人に接するように誰もが接します。アメリカ人ができることは外国人もできて当然だし、知ってることは知ってて当然です。これは意外と、外国人にとってはつらいことが多いです。実はアメリカ人にできて外国人にはできないことは、法的にもいろいろあります。普段は差別されて憤慨していても、「そこは差別してよ」と思ってしまうことがあるかもしれません。

これまでに書いたことの多くは、日本にいる外国人にもそのまま当てはまると思います。悪意に基づくあからさまな差別は日本ではアメリカより少ないかもしれないですが、外国人に対する微妙な差別や無意識の差別はアメリカより日本の方が多いかもしれません。

オーストリア出身のしげの友達がいるのですが、その人は、自分は白人だけどアメリカでたくさん差別を受けて傷つく、しげは白人ではないから、きっと自分よりもさらにひどい差別をたくさん受けているだろう、と言っていました。たとえ人種的には差別の対象ではなくても、アメリカ人ではない、というだけで、アメリカではとても肩身が狭いです。

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