しげがゲスト・エディターを務めた雑誌『a+u』8月号「バックミンスター・フラーの7つの原理」が発売になりました!

なぜ、それでもアメリカなのか

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これまでに書いた四つの記事「アメリカに住んでいて大変なこと①お金」「②食べ物」「③移動」「④差別・偏見」のなかで、しげは基本的にアメリカの悪い部分ばかり書きました。成功談よりも苦労話や失敗談のほうが読者に受けると聞いたことがあると妻に言われたし、そもそもしげは失敗談のほうが成功談よりもはるかに多いので、これからもどちらかと言うとネガティブな話をたくさん書くつもりです。「アメリカに住んでいて大変なこと」というテーマを決めた時点で、アメリカの悪口ばかり書くことになるのは仕方がなかったですし、しげもポジショントークというか、キャラ付けのような意味も込めて、アメリカ嫌いの立場を徹底しました。しかしそのせいで、これらの記事を読まれた方々のなかには、「こいつはアメリカでやっていけるのか」「日本に帰ったほうがいいのではないか」「そもそもどうしてアメリカにいるのか」と疑問に思われた方々がいらっしゃるはずです。

ですので、しげはそもそもどうして博士課程に進学する際にアメリカの大学を選んだのか、アメリカの大学のどこが良いと思ったのかについて書くことにしました。博士課程に進学した後に初めて気づいたアメリカの悪いところもたくさんあることは事実ですが、それ以前にアメリカの大学についてたくさん調べ、また自分である程度直接体験したうえで、しげはアメリカの大学に進学することを自分の意思で決めました。

最初にアメリカの大学を意識し始めたのは高校生の頃だと思います。英語の先生が「学部はともかく、大学院からは海外の大学に行くのがいい」と授業中に言っていました。十年以上前のことなので、その先生がなんと言っていたのかはっきりと覚えているわけではないですが、その先生が言うには、学部と違って大学院からは研究を行うので、研究予算がたくさんある大学が良く、日本の大学の研究予算は総じてアメリカなどの他国の大学とは比べ物にならないほど少ないということでした。アメリカに限定していたのではなく「海外」という言い方だったのではないかと思いますが、特にアメリカがいいと言っていたと思います。同じ理由で、日本国内ならば少なくとも大学院からは国立大学がいいということでした。それは他の先生も同じように言っていたと思います。その英語の先生自身は留学経験がどの程度あったのか知りませんが、英語の先生なので生徒たちに英語を活用できるような道に進んでほしいという願いもあったのかもしれません。この話を聞いてしげはアメリカ留学を「決意した」と言えば間違いなく間違いですが、少なくともこのとき初めてアメリカもしくは日本ではないその他の国の大学院にいつか行くという選択肢があることを意識したとは言えると思います。それまでは、そんな選択肢があるということすら考えたこともなかったと思います。これをきっかけに、しげは将来海外の大学院に行くのだろうとずっとなんとなく思っていたし、先生がこう言うのだからほかのみんなも大体行くのだろうと思っていました。

あのときのクラスメイトに、もしくは同じ先生の授業を受けていた他のクラスの同級生に、その先生が言った通り海外の大学院に進学した人がどれだけいるのか全く知りませんが、当時しげの周りでは誰ひとりとして将来海外に行くということを考えている人はいなかったと思います。高校のひとつ上の先輩にイギリスの大学を受験した人がいて、しげは個人的にその人と関わったことはほとんどなかったと思いますが、生徒会長をしていたので後輩たちにも顔と名前をよく知られていました。その人がエディンバラ大学に合格したという貼り紙が、他の生徒たちが日本国内の様々な大学に合格したという貼り紙とともに廊下に貼り出されていたのですが、ほとんどの学生はエディンバラという地名やエディンバラ大学の名前を聞いたことがないので、その貼り紙を見て「すごい」と尊敬の眼差しを向けるというよりは、むしろ聞いたことのない変な名前の大学に合格したということでネタにされるような状況でした。エディンバラ大学はとても良い大学だと思うのですが、普通の高校生はオックスフォード大学とケンブリッジ大学以外にはイギリスの大学を知らないのだと思います。しげもエディンバラ大学がどんな大学かは当時もいまも詳しくは知りませんが、コナン・ドイルの出身校だなと思いました(しげのメールアドレスはsherlock.holmes@…です)。しげが知っている範囲では、しげと同学年で学部から海外の大学に行った人はいませんでした(海外の大学院に行った人も誰も知りませんが、そもそもしげが近況を知っている高校の同級生はほとんど誰もいないので、もしかしたらしげが知らない範囲でいるのではないかと思います)。

学部から海外の大学に行こうと思えるのは、とても早いと思います。しげは高校生の時点ではまだ一度も日本を出たこともなかったですし、英語の先生が言っていたのも大学院からの話だったので、学部から海外の大学に行こうと思ったことは一度もありませんでした。しげがアメリカの大学に来てみてから知ったのは、学部から海外の大学に行く日本人の多くは、もともと海外での生活に慣れている帰国子女などを除けば、かなりの割合で、生徒の大多数が海外の大学を受験する高校に通っていた人たちです。そのような高校では、外国人の先生が多く、授業も外国語で行われていたり、いろいろな国の大学の受験対策のノウハウが蓄積されていて、普通の高校に通うよりはるかに海外の大学に行きやすい環境が整っているようです。周りも海外の大学への進学を目指している人ばかり、海外の大学に行くのが当然という環境の影響はとても大きいと思います。しげのクラスは、東大、京大、東工大、一橋大以外を志望するということはほぼあり得ない環境でした。海外大学の受験に強い高校を選ぶということは、中学生の時点ですでに海外に行くことを目指しているということで、親が志望校を選んでいる場合も多いだろうとは思いますが、それにしてもとても早いと思います。そのほか、高校から海外に行ってそのまま大学もその国で行く人もいますし、普通の日本の高校に行きながら、海外の高校に一年間交換留学をしたことをきっかけに海外の大学を目指す場合もあると思います。

ということで、東大には受からなかったので、家から歩いて行けた早稲田大学に普通に進学したしげですが、初めて海外に行ったのは、大学二年生になる直前の春休みでした。大学で学籍番号がとなりの友達と、イギリスのロンドンに一週間ほどの観光に行きました(221B Baker Streetももちろん行きました)。当然かもしれませんが、このときの体験はしげにとってとても大きなものでした。しげ以外の多くの人もしげと似たようなことを感じるのかわかりませんが、しげが初めてロンドンに行って最も大きく変わったことは、「早く東京に行きたい」という気持ちでした。それは、ロンドンはもう疲れたから早く故郷に帰りたいということではなく、一観光客として東京を訪れたいというような感覚でした。ロンドンから東京に帰る飛行機のなかでは、日本に帰るのではなく、むしろこれから日本旅行に出発するのだという感覚でした。そういう意味で、ロンドンへ出発するときよりも東京へ帰るときのほうが、断然これからのわくわく感が大きかったのです。もともと建築学科だったのでいろいろな場所や建物に興味がありましたが、ロンドンに行って以来、より積極的に東京の名所を訪れたり、歴史や地理を勉強するようになったと思います。いまのしげが主な研究対象としている明治から昭和初期までの知識人のほとんどは必ず海外で学んでいましたが、しげも日本で生まれ育ち、ある程度大きくなった後で初めて海外に行くという経験をしたことで、彼らが当時どのように感じていたのかある程度想像できるようになったと思います(想像が当たっている保証はないですが、それでも自然と想像できることが大きいです)。しげの博士論文は、まさにこの経験の効果が主な論点になりそうです。

それから、東京を一生懸命観光するようになったことはもちろんですが、これまた当然のこととして、もう一度海外に行きたいと思うようになりました。しげはすぐに行動を起こしたので、ロンドンに行った春休みの次の夏休みには、早稲田大学の留学センターを通して、アメリカのカリフォルニア大学デービス校(UCデービス)のEnglish for Science and Technologyという約一ヶ月間のプログラムに参加することになりました。これが、しげの初めてのアメリカです。なぜUCデービスだったのか、はっきりとは覚えていませんが、英語圏の大学のなかで、プログラム内容や期間や費用などを総合的に判断したうえで出願したのだと思います。しげはもともとごりごりの理系だったので、English for Science and Technologyという理系に特化した内容のプログラムに惹かれたのだと思います。今回は前回の一週間のロンドン観光と比べて期間も長く、また、英語の勉強のために来ているので、日本人が多かったとはいえ、現地の人たちとの接触もはるかに多くなりました。当然、この体験の影響もロンドンの体験と同じかそれ以上にしげにとって大きなものでした。ちなみに、冒頭の写真のROAD WORK AHEADの看板は、UCデービスでしげが下を向きながら自転車で全速力で突っ込んでいって、顔を上げたときにはもう遅く、前輪に大ブレーキをかけて全身が吹っ飛んでいったときのものです。UCデービスへの留学でしげの人生に大きな影響を与えた体験は、大きく分けて三つあると思います。

ひとつは、初めてアメリカの大学を知ったことです。大学はもちろんひとつひとつが全く違うので、UCデービスでアメリカの大学を代表させることはできないですが、アメリカの大学の広大さと雰囲気を知ることができたのは大きいです。プログラムの通常授業以外にも毎日のように多くのイベントがあったのですが、UCデービスで教授をしている日本人の先生の講義を聞いたり、アメリカの大学院に出願する方法についての講義を聞いたりしたこともありました。その日本人の先生はDr. Shibamotoという方で、その先生の名前を見たとき、一瞬Dr. Shigemotoと書いてあるのかと自分でも思ったし、友達にもそう見えたと言われたのもあって、この講義をよく覚えています。その方はコーヒーの人体への影響について研究されていたので、その研究内容についての講義で、とにかくコーヒーには抗酸化作用があるので体に良く、よほどの量を飲まない限り体に悪くはならないという主旨だったと記憶しているのですが、プログラムにこの講義が含まれている意図としても、実際にしげがDr. Shibamotoから受け取った最も大きなものとしても、コーヒーについて学ぶことが重要だったわけではなく、日本生まれ日本育ちの人がアメリカの大学で教授になり研究をして英語で発表をしているところを見るということ自体が重要だったのだと思います。プログラムには日本人以外にもいくつかの国から学生が集まっていましたが、プログラム・コーディネーターの方は日本の方だったので、Dr. Shibamotoと知り合いで、プログラムに参加している日本人学生に彼の講義を聞かせたかったのだと思います。いまDr. Shibamotoの英語を聞いて自分がどう思うのかわかりませんが、彼が明らかにネイティブスピーカーではないアクセントを持ちつつも、ネイティブスピーカーのように流暢に英語を話していて、日本語を話しているところは一度も聞いていないですが、英語を話している間は日本人とは全く思えないほどアメリカの大学になじんでいるのを感じました。英語が下手であるほど、ほんの少し英語をしゃべる人を見ただけでもネイティブスピーカーのように見えてしまうものですが、それにしても、Dr. Shibamotoが醸し出している「非日本人」感のようなものが強く印象に残りました。このような体験を経て、高校のとき以来なんとなく自分は将来海外の大学院に行くだろうと思っていた気持ちが、なんとなくからよりはっきりとしてきたのでした。

UCデービスで得た大きな経験のふたつ目は、しげが接したアメリカの人たちは皆、「自分はこれでいいのだ」という感覚を持って生きているのだと感じられたことでした。自分が太っていても、ブサイクでも、頭が悪くても、性格が悪くても、ほかにも誰でも何かしら悪い部分を持っているわけですが、それでもいいのだという発想が皆の根本にあることが感じられました。悪く言えば自分に優しく甘いのですが、それは他人に優しいことにもつながっていました。多様性をそこにあるものとして、当然のものとして受け入れているからこそ、自分の個性も他人の個性もただそういうものとして受け入れられるのだと思います。常に人から責められ嫌われることに怯えなければならない多くの日本人とは違っていました。このことは、アメリカにいることは心地よいことだから将来もっとアメリカで過ごしたいとしげに思わせたと同時に、しげが日本にいるときでもしげがどう振る舞うかに変革をもたらしたと思います。

三つ目は、プログラムの一番最後に早稲田生だけで訪れたサンフランシスコに出会えたことです。現地で活躍されている早稲田大学のOB・OGの方たちとの会合があったため、最後に少しだけサンフランシスコを訪れたのでした。一緒に訪れた人たちは、サンフランシスコはあまり好きではない、という感じだったのですが、しげは、サンフランシスコを訪れて、こんなに美しい都市が世界にあるのか、と驚いたのでした。もはや、「これが都市というものなのか」と、しげは初めて都市というものをこの目で見たのだと思ったのでした。東京で言う銀座通りのようなMarket Streetの南側にホテルがあったのですが、そこからひとりでぐんぐんと北に歩いて行って、港のあるところまでたどり着いたときにはもう夕方だったので、ゴールデン・ゲート・ブリッジのほうへ向かって橋の下を潜り抜ける船に乗ることはできませんでした。それから数年後に、船に乗ってアルカトラズ島へ行ったり、橋をバスで渡ってフランク・ロイド・ライト設計のマリン郡庁舎を訪れたりすることができましたが(そのときシャーロック・ホームズ博物館で買った定期入れを落としました)、橋の下を船で潜り抜けることはまだできていないので、いつかまだサンフランシスコに行ったことのない妻と一緒に行きたいです。これはしげの夢なので、夢を叶えない限り何度でもサンフランシスコに行く口実ができるので、わざといままで夢を叶えていなかった節もありますが、もうそろそろいいでしょう。夢を叶えた後も行けばいいです。港に向かって歩いて行く途中、その日はOB・OGとの会合があったのでシャーロック・ホームズのネクタイをつけて正装していたためもあってか、おそらく現地人と間違えられて道を聞かれたのも良い思い出です。しげは観光客の鏡として地図を片手に持っていたので、現地人ではないけれど、道を教えてあげたのでした。たしかにサンフランシスコは、ホームレスで溢れていますし、危険な香りのする部分も多いです。早稲田大学が雇った現地ガイドの方から立ち入ってはいけないと言われた、アメリカで最も殺人事件の多い地区などもあり、後年そこにもわざと立ち入ってみましたが、たしかに言われた通り、身の危険を感じました。しげが訪れたのはコロナ前ですが、コロナ後は特に荒廃しているようです。しかしそれでも、それを超えてしげの心に訴えかける美しいものがサンフランシスコにはありました。というわけで、サンフランシスコにまた戻ってくるということは、しげがアメリカの大学院に行く強い動機のひとつになりました。結局入学した大学はテキサスですが、旅行で行ければそれでいいと思います。ちなみに、今後ほかの記事で詳しく書きたいと思いますが、サンフランシスコから比較的近いカリフォルニア大学バークレー校のPhDプログラムも受験しましたが不合格でした。

UCデービスから帰ってきて、大学院はアメリカで行きたいという思いを強くしたしげがまず最初に考えたことは、とりあえず、今度は一ヶ月ではなく一年間、アメリカの大学に留学するということでした。一ヶ月だけの、それも日本人に囲まれた夏休みだけの経験で、いきなりアメリカの大学院に出願することは厳しいだろうと思ったからです。その時点でまだ大学二年生だったので、一年後の三年生の秋から行ければいいと思ったのです。それにしてもしげは欲張りで、一年間留学はしたいけれど、大学の卒業は延ばしたくないと思ったのでした。ほとんどの学部、特に文系の学部ではそれは十分可能だし、実際に一年間留学して四年間で大学を卒業している人はいくらでもいます。しかし、しげの所属する建築学科ではそれは不可能なのでした。調べてすぐにわかったのは、しげがUCデービスのプログラムに参加するために利用した留学センターから同様に一年間留学した場合、留学先で取得した単位を早稲田大学建築学科の単位に編入することはできないので、単純に留学した分だけ卒業を遅らせるしかないということでした。しかし、建築学科のウェブサイトを見ると、箇所間協定という留学制度を使えば卒業を遅らせずに留学することができると書いてありました。箇所間協定とは、留学センターのような大学全体を代表する機関を通してではなく、建築学科が世界のほかの大学の建築学科と直接協定を結んで留学プログラムを用意したもののことです。建築学科どうしで協定を結んでおり、留学先では建築を学ぶことになるので、その制度で留学した場合は早稲田大学建築学科での単位互換も可能ということです。しげの記憶では、ウェブサイトには、学部生もその制度を利用できると書いてあり、現在どのようなプログラムがあるのかは担当者に問い合わせてくださいと書いてあったのでした。そこで、しげはすぐに問い合わせました。すると、箇所間協定は大学院生のためだけにあるものであり、学部生が応募できるものはないとの返事が来ました。こうして、しげの一年間留学の夢は、UCデービスから帰ってきてそう長くも経たないうちに、儚く消え去ってしまったのでした。

もちろん、一年間卒業を遅らせれば留学センターから留学することは可能でした。しかし、当時のしげは、一年間の留学と四年間での大学卒業を天秤にかけたうえで、四年間での卒業を優先することにしたのでした。理由は複数ありますが、日本の大学、とくに建築学科では、一年間卒業を遅らせるということはかなり大きな決断です。北米では、ほかの経験を積むために大学を休学したり、退学したり、ほかの大学や専門学校に転入したり、専攻を変えたりすることは、とても普通なことで、ほとんどの人が抵抗なく行います。しかし日本では、浪人や留年は多くの人にとって経歴上の「汚点」として受け取られるし、ほかの学校への転入や専攻の変更も、ほとんどの場合で在学期間の延長を伴うため、忌避されます。休学や退学、転入や専攻の変更をしてみたい、と思う人がいても、ほとんどの人は両親に言い出しにくいでしょう。しげ個人としては、ほかにやりたいことがあるなら、そのために多少学生期間を延ばしてでもその方向に進んでみることはすばらしいことだと思うのですが、当時のしげも、ほかの多くの日本人と同様に、留年しない方向を選択したのでした。また、これも北米ではあり得ないことですが、日本では、学年がひとつ違うだけでも、相手との話し方や言葉遣いが違ってきます。そのため、ひとりだけひとつ下の学年に落ちた場合、周りの学生はその人にどう話しかけてよいのかわからず、多くの場合、少なくとも最初は敬語で話され、お互いにぎこちない関係になってしまいます。しっかりとしたコミュニケーション能力があれば、そんなことはどうってことないはずなのですが。大規模な教室での講義が主な文系の学部ならあまり関係のないことなのだろうと思うのですが、建築学科では設計製図の授業があるので、ひとつ学年を落とすということはより大きな意味を持っています。すでに知っている同級生とこれからも一緒に授業を受けて一緒に卒業するということを投げ打ってひとつ下の学年に混ざるということが、当時のしげには想像できなかったのでした。その後、しげはたったひとりだけ、留学センターから一年間留学して卒業を延ばした建築学科の先輩に出会いましたが、学部での留学を考える学生がほぼ皆無な建築学科では、彼はまさに「激レア」な逸材でした。

こういったことは、理工系学部のある西早稲田キャンパスから、早稲田大学のメインキャンパスである早稲田キャンパス(いわゆる本キャン)にほんの1キロほど移動すれば、学生の考え方はまったく変わっているかもしれないのですが、理工系学生のほとんどはそのことに気づいておらず、理工の常識のなかで逡巡します。しげは、三年生くらいから、アメリカに留学できない代わりに早稲田キャンパスに入り浸るようになり、しげにとってはそれがほとんど留学のような経験でした。同様に、早稲田大学の制度を利用して、学習院女子大学や武蔵野美術大学にも「留学」しました。

その後、四年生になって研究室に配属され、卒業後の進路を決める段階に入りました。早稲田大学の建築学科では、入学時に説明を受けたのですが、そもそも学生が修士課程に進む前提で六年間のカリキュラムをつくっているとのことでした。実際に七割以上の学生が修士課程に進学すると聞いています。自分も、将来は博士まで取得して研究者になる以外に道はないと感じていたので、修士課程に進学すること自体は決まっているのですが、できれば早稲田大学ではなく、アメリカの大学院に進学したいと思っていました。そのため、早稲田大学の大学院への推薦入学を辞退して、もといた建築学科の大学院は一般入試で受験することにしました。結局一年間の留学をしなかったので、夏休みの語学留学しか経験のない状態でアメリカの大学院を受験することになるので、かなり厳しい道であることは理解していたのですが、結果的には、やはり自分には無理な挑戦でした。実際にいくつかの大学に出願しようと途中まで準備を進めたのですが、結局本当に出願した大学はひとつもなく、途中で諦める結果となったのでした。理由としては、建築学科を卒業するために待ち受けている卒業論文と卒業計画の双方に一生懸命取り組みたかったので、それとは別に大学院の出願も同時に行う時間がなかったことがひとつです。もうひとつは、やはり、自分に自信がなかったことです。英語力も不十分だし、アメリカ生活も一ヶ月の経験しかないし、ましてや英語でのアカデミックな成果物は何もないし、推薦状を頼む人もいない。英語のテストは、アメリカの大学院に出願するなら、大学によって違いますが、TOEFLなら90点から100点程度、IELTSなら7.0は最低でも必要ですが、しげはこの時点ではこの点数はとれていなかったと思います(しげはIELTS派です)。いま思えば、学部生でアカデミックな成果物がないのは当然のことで、アメリカの学生も同じことなので、大学の授業の課題で提出するレベルのものをとにかく何か書いて出せばよかったのではと思いますが、当時のしげは、何も業績がないことを負い目に感じていました。また、推薦状に関しては完全にお手上げで、普通は三枚、少なくとも二枚の推薦状が必要ですが、誰に頼めばいいのか全くわからない。誰か思いついたとしても、自分がその人に推薦してもらうに足るだけの人間であるという自信がないわけです。そしてそもそも、英語で推薦状を書ける日本人というのはほとんどいませんが、かといって当時のしげには、知り合いの外国人の先生は英語の先生くらいしかいませんでした。このような経緯で、しげは修士課程でのアメリカ留学を諦めました。アメリカ留学をまだ完全に諦めていないうちから、日本国内でほかの大学院に行くのもいいかもしれないと思い、京大がいいなと思って調べたり、東工大のオープンキャンパスに行ったりもしたのですが、どこもしっくりこなかったので、結局無難な選択をして、そのまま早稲田大学のもといた建築学科の修士課程に進学しました。

そして、早稲田大学の修士課程に進学してしばらく経ったころ、修士課程は短いのであっという間に卒業後のことを考えなければいけない時期になるのですが、やはり博士課程に進むということは自分のなかで決定していました。しかし、もう一度アメリカの博士課程を目指すべきなのかどうかがわからない。このままでは、アメリカの博士課程を目指しても、修士課程で諦めたのと全く同じ道をたどるだけだと思いました。そこで、自分が本当にアメリカの大学で博士課程に進みたいのかどうかを確かめるため、そして、もしアメリカの大学院に行くことになるなら、英語面やアカデミックな能力面や生活面や推薦状の面でその準備ができるように、修士二年の秋から、留学センターのプログラムでウィスコンシン大学マディソン校(UWマディソン)に一年間(二学期間)留学することにしました。必ずしも建築を学びたいわけではなかったので、箇所間協定ではなく、好きな授業を好きに取っていい留学センターのプログラムで留学しました(UWマディソンには建築学部がありません)。修士課程になると、箇所間協定を利用してヨーロッパなどに留学する学生がたくさんいるのですが、留学センターから留学すると卒業も必ず延びますし、大学院生が留学センターから留学することはとても珍しいです。このときには、しげはもう卒業が伸びることは心配していませんでした。研究室に配属されてしまうと、学年がひとつ下がることもそれほど大ごとではなくなってきます。しげがUWマディソンで何をしていたのかの詳細はまたいつかほかの記事で書くとして、結果的に、しげはこの一年間弱の経験を通して、アメリカの大学で博士課程に進学することの決意を固めたのでした。

冒頭にも少し述べた通り、しげがこの時点でアメリカという国やアメリカの大学について感じていたことのなかには、いまでは勘違いだったかもしれないと思うこともなくはないのですが、それでも、アメリカの大学院に進むことの良さを、マディソンでたくさん知ることができたのでした。それはいくつもあるのですが、しげにとって一番大きかったのは、アメリカの大学では、教授陣も学生側も、皆教えることや学ぶことに関して真剣なことでした。日本では、ほとんどの学生はやる気がなくて単位を取れればそれ以上は求めないし、ほとんどの教授もほかのことで忙しいので、授業のことや学生のことはあまり興味がありません。鶏が先か卵が先かで、どっちが先だったのかはわかりませんが、悪循環に陥っていて、学生も教授もやる気を取り戻すことはめったになく、毎日の講義は消化試合のようで、淡々とこなされているだけです。もちろん例外は教授にも学生にもいて、しげは学部三年生くらいから、早稲田大学でそのような例外的な授業を見つけるのが上手になっていました。しかしアメリカでは、日本での例外のほうがむしろ主流であるように感じたのです。日本では、受験勉強を皆がんばるので、多くの人にとって大学に入る前が勉強のがんばりどきで、大学は勉強の場ではありません。しかし、実際には、大学に入ってからが本当の勉強です。高校までの数学は数学ではなく算数です。そこに「学」はありません。しげはアメリカの大学の入試制度よりも日本の大学の入試制度のほうが総合的には優れていると思いますが、アメリカの学生の多くは、大学に本当に勉強しようと思って入ってきます。これももちろん例外はいくらでもいるに違いないですが。また、しげはまだ大学の内部の仕組みにそれほど詳しくはないのでわからないですが、教授たちも、授業の評判が悪ければ昇給できないなどの不利益を被る可能性がありますし、それだけが理由ではないと思いますが、皆情熱を持って授業に臨んでいます。そのような良循環の環境が昔からずっと保たれているのだと想像します。「雰囲気」というのはとても大事で、学問をするうえではアメリカの大学のほうが日本の大学よりも圧倒的に雰囲気が良いというのが、しげがマディソンで感じ取ったことでした。

最近では日本でも少しずつ変わってきているのではないかと思うのですが、日本の大学では、特に研究室では、教授が学生を怒鳴りつけたり、教授が学生を泣かせたり、学生を教授の個人的な仕事のために不当に働かせたりすることは日常茶飯事だと思います。アメリカでは、そもそもそういった悪い気をまとった教授はあまりいないですし、ハラスメントや差別をすれば簡単に自分のキャリアが崩壊しかねないので、気をつけている人が多いです。日本では、そのようなことが原因でキャリアが崩壊しかねないのは、被害者が自殺してしまうなどの極端な結果になってしまった場合や、運悪くSNSやネットメディアやテレビなどで情報が広まってしまって大学側も炎上を抑えることができなくなってしまったような場合だけで、それ以外は被害者が何を訴えたところで不問なことが通常です。このような状況なので、学生も教授を尊敬していない場合が多いですし、その場合、学生は常に教授の悪口を言っています。悪口は学生たちの間にもあります。研究室のようなコミュニティでは悪い意味でのライバル意識があって、学生の間で妬み嫉み僻みが横行します。アメリカの大学には、日本の大学の研究室のような強いられた共同体の制度がそもそもないので、このようなことが起きづらいのではないかと思います。研究室はいわば教授の独裁コミュニティなので、教授の人柄と器量次第で良い場にも悪い場にもなりうるのです。多くの学生はこの研究室という制度によって、理工系の学生が理工系の常識から逃れられないと先ほど述べたのとは比べ物ないならないほどさらに小さな世界のなかで、井の中の蛙になってしまい苦しむのです。このような意味で、日本の大学の雰囲気は悪いとしげは思います。自分が教授なら話は少し違ってきますが、その場合、しげなら、旧来の意味での研究室とは全く違う、より開けたゆるいつながりの場にすると思います。「重本研究室」という響きはちょっと気持ちが悪いのでいやです。

アメリカの大学院に世界中から学生が集まってくるのは、多くの場合、シンプルにアメリカの大学の研究や教育の「レベルが高い」からです。大学ランキングのようなものがどれだけあてになるのかよくわからないのですが、ランキングを見ればこのことは一目瞭然です。しげにとっても、もちろんこのことは大きな要因のひとつでした。はじめに研究よりも教育について述べたいのですが、これについてはまず、教授の情熱が日本の大学とは違うと上で述べた通りです。学部と大学院のどちらもに当てはまることですが、そもそもひとつひとつの授業を一学期間やり抜くことや、ひとつのプログラムを最後までやり切って学位を取ることの難しさの次元が違います。日本では学部でも大学院でも、一度も出席しなくても単位が取れるような授業がたくさんあり、昔はもっと多かったのだろうと思いますが、アメリカではそんな授業は基本的にはありません。ひとつひとつの授業や先生や分野によってまちまちですが、日本の大学生や大学院生が全在学期間中に読むくらいの本や論文をアメリカの学生は一週間で読んでいます。アメリカの大学生は、日本だったら毎週大学を卒業しているということです。日本にもアメリカにもいろんな学生がいますが、平均をとると大体これくらいのリーディング量の比率になると思います。特に大学院での差は激しいです。修士課程でも博士課程でも、アメリカの大学では、大学院の新入生が取らなければならない必修の授業があり、そのなかで、その分野の基礎的な理論を徹底的に学びます。もちろん先生によってその内容は異なるのですが、その授業では、アカデミアの世界で生きていくのに必要な知識を総合的に身につけ、本や論文を読むだけでなく、書く課題も毎週のように出されます。しげは、これに相当する授業をart history, architectural history, Asian studiesの三分野で受講したことがあります。大学院というのは専門性を身につけるところですが、日本にはこのような授業が存在しないか、あったとしてもアメリカの大学ほど徹底的に理論を身に付けさせないため、ほとんどの学生がその分野の基礎的な知識を持たないまま教授の研究を手伝ったり自分の個人研究をしたりしています。

しげが属していた早稲田大学の修士課程にももちろん必修科目があったのですが、それらの授業でメインのものは、なぜか全て英語で授業がなされるというものでした。毎週違う先生が来るオムニバス形式の授業だったのですが、当然ながら、ほとんどの先生は授業を行うほどの英語力がありません。学生も、英語で言われたことの全てを理解できるわけではありません。英語が苦手な先生は事前に授業のスクリプトを全て書いてきてそれを読み上げることでどうにか対応したりしていたのですが、先生たちは自信を持って言いたいことを全て言うことができないし、学生は言われたことを全て聞き取って理解することができないという、惨事としか言いようのない授業でした。今日では、日本の大学院に入学するにも英語のテストの点数が一定以上でなければならなかったりすることが多いです。しかし、教授たちはそういう時代になる前に大学院に通って教授になった人たちなのに、彼らに英語での講義を強要するということが理にかなっているとは思いません。これは、教育のレベルを「下げる」以上に、教育を「無」にしているに等しい行為であるとしげは思います。また、その授業で学生に求められることは、授業の三分の二以上に出席して最後にひとつ短いレポートを書くことだけでした。しげが先ほど話したアメリカの大学院の必修授業では、毎週大量のリーディングとライティングがあり、授業内で数時間みっちりとリーディング内容についてのディスカッションなどを行います。しげが属していた早稲田大学の修士課程の必修授業は百人以上が受講しているものですが、アメリカの大学院の必修授業は十人もいればかなり多いほうです。アメリカでは、大学院というのは、先生たちと個人的に密にコミュニケーションをとりながら勉強や研究を行い学んでいく場です。内容的にも、しげが日本で受講したその授業では、オムニバスという形式上、それぞれの先生が自分の行っている研究などについて好き勝手に話していただけなので、その分野の理論を体系的に学べるということは全くありませんでした。誰もが大学院に進学することを当然とする代わりに、本当に専門性を極めたいと思っている優秀な学生だけが大学院に残るようにして、彼らに奨学金などが行き渡るようにするべきだとしげは思います。学生の授業料はいい収入源なのでしょうが、お金を搾り取るためだけに百人以上も入学させて、成立しない授業を行うというのはひどいと思います。「修士」という称号を持った人たちが増えても、修士が本来持っているべき専門性を持った人材はほとんど増えていないのが現実ではないでしょうか。

また、制度面での厳しさも違います。しげは自分が所属していたところとその周辺のことしか詳しくはわからないのですが、少なくとも早稲田大学の建築学科では、修士課程や博士課程の学位の制度が杜撰でした。しげが属していた修士課程では、修士号を取る直前に「修士(建築学)」か「修士(工学)」のどちらかを自分で選ぶことができました。それまでに取ってきた授業や行ってきた研究がどのようなものだったかに関係なく、自分のキャリアにとって有利そうなほうをどちらでも自由に選択して良いということでした。しげはこれからも建築の世界で生きていくつもりだったので「建築学」を選びましたが、「工学」を選ぶこともできました。しげの専門はあくまで歴史学なのですが、ほかの理工系学科の人たちが持っているのと同じ修士(工学)を取得することもできたのです。これはしかし、おそらく建築学科ならではのおもしろい現象で、元をたどれば明治時代からの制度の名残だと思います。それにしても、工学を全く勉強していない人が工学の学位を取れるのはやはりおかしいのではないかと思うのです。修士(建築学)の英語名はMaster of Arts in Architectureでした。これはアメリカではあまり聞かない珍しい学位だと思うのですが、あくまでMaster of ArtsであってMaster of Architectureではないところは良いと思います。アメリカでは、建築の修士課程というのは、医者を目指す人たちが行くメディカルスクールや法律家を目指す人たちが行くロースクールなどと同様に、建築家になりたい人が行く専門職大学院です。アメリカでMaster of Architectureを持っていると言ったら、そのような大学院に行って建築デザインを専門的に学んだと思われてしまいます。日本では、少なくとも早稲田大学では、建築のデザインを学びたい人たちも、建築の歴史を学びたい人たちも、建築の工学を学びたい人たちも、皆同じひとつのプログラムに入ります。そして、皆ふたつの学位のうちのどちらでも好きなほうを選ぶことができます。これはあまりにも大雑把なのではないでしょうか。

アメリカでは、受講しなければいけない必修授業や取得しなければいけない単位数などの、学位を得るために必要な要件が事細かに決められています。こういったことは日本でもある程度決められているとは思いますが、その細かさや厳しさが大きく違っています。アメリカの大学にはGraduate Schoolという部門がたいていあります。これは「大学院」を意味する英語でもありますが、この場合は、大学の一部門のことです。Graduate Schoolは、日本でいう学部と同等の地位にあります。大学全体のなかに理工学部や文学部などの学部がたくさんあるのと同じレベルにGraduate Schoolというものがあります。しげの理解では、このGraduate Schoolというのは、分野に限らず大学全体で大学院のレベルや公正性を保つために設置されている、学部から独立して学部と同等の地位を持っている第三者機関です。ですので、例えばSchool of Architectureのなかの博士課程であっても、なんでもかんでもSchool of Architecture内の教授陣やスタッフで決定できるわけではなく、Graduate Schoolが定めている最低限の基準を満たさなければならないし、彼らの許可なく誰かに修士号や博士号を与えることはできません。このようにして、大学全体の教育や研究のレベルが保たれているのです。たとえばしげが所属しているテキサス大学オースティン校では、どこの学部であろうと、博士号を取得するために提出する博士論文は、三人以上の学部内の教授と、ひとり以上の他学部や他大学からの教授の合計四人以上で形成された委員会で審査されることになっています。しげの場合は、三人の学部内の教授と、ふたりの他大学の教授に審査していただいています。また、博士論文の最終発表の場はDefenseと呼ばれますが、これは、少なくとも建前上は、全世界に開かれたものでなければなりません。実際にどれだけの人が見に来るかはその論文のテーマや著者の交友関係などによると思いますが、博士論文の研究結果は当然全世界に公開できるものでなければならないので、博士号を取るための最後の発表の場も、誰でも聴講できるものでなければならないのです。修士論文の場合も、博士論文よりは厳しさが和らぎますが、似たようなルールがあって、大学全体でその質が保たれています。しげが属していた早稲田大学のコミュニティでは、修士論文も博士論文もどちらも学部内のふたりの教授の前で発表すればよかったですし、発表の場は完全に内輪でした。学部外の教授に審査に加わってもらう必要がないことで、論文のレベルや公正性を保つことが難しくなっているのではないかと思います。これまで話してきたことは、もちろんしげが所属していた学科についてのみなので、ほかの学科や学部では実態が全く違う可能性があるのですが、大学全体で分野に限らずレベルや公正性を保つ仕組みがないところが問題だと思うのです。このように、アメリカでは、プログラムをひとつつくって維持するということはとても大変なことなので、あるひとりの教授の思いつきでいきなり「来年から博士の学生を取ろう」などということにはなり得ません。しげの専門である建築史の博士課程も、アメリカのどの大学にもあるわけではなく、限られた大学にしか設置されていません。それはそもそも、建築史の先生の人数が少なかったりすれば建築史のプログラムを設置することはできないからです。

教育のレベルの違いについて書いたので、次に、研究のレベルの違いについてです。これはもちろん個々の分野や大学や教授によって違っているのですが、アメリカの大学のほうが日本の大学と比べて研究のレベルが高いということは、誰もが認識しているように、全体的には当然言えることだと思います。その理由の一端は、上で述べた大学院の教育レベルの差ではないかとしげは思います。大学教授になって研究を行う人たちは、基本的に必ず博士号を持っています。博士号とは、そのための資格だと言ってもいいと思います。その博士課程やその前の修士課程での学習内容にレベルの差があれば、最終的に大学教授の研究レベルの差につながることは当然のことです。勉強や研究とは、最終的にはとても孤独で個人的なものですが、とは言っても、自分がどのようなコミュニティに属してどのような人たちと接してきたか、そのコミュニティがどのような雰囲気か、が自分の勉強や研究に影響を与えることはもちろんです。以前、成田悠輔さんが、研究者がアメリカに行くということはスポーツ選手がそのスポーツの本場に行くようなものだとYouTubeで言っていたのを見たことがありますが、まさしくその通りで、野球で言えば、分野によっては、日本の大学とアメリカの大学は、高校野球とプロ野球くらいの実力差がある場合も多いと思います。高校野球とプロ野球と、どちらが観戦するのにより魅力的かは決められることではないですが、どちらのチームの実力が上かは明らかです。高校生はまずプロ野球選手と比べてまだ体が出来上がっていない場合が多いと思いますが、研究者で言えば、その分野での基礎的な知識や論の組み立て方などに根本的な差があるのです。

これはまた、単純にレベルが高いか低いかというだけの問題ではありません。言語の問題があるからです。しげは、いろいろな日本人研究者が書いたエッセイのようなものを読んだことがありますが、日本語で書いた論文というのは世界的には存在していないことと同じだという主張をしている人は多いです。これは、一面としては正しいとしげも思います。日本語で書かれた論文が世界の大学ランキングなどの作成の際に論文の本数としてカウントされているのかどうかしげは知りませんが、世界中の研究者の感覚としては、日本が研究対象となっている分野でない限り、日本語の論文や日本語でしか論文を書かない研究者は、よほど重大な発見でもしていない限り、文字通り存在していないことになっているでしょう。特に理系では、英語の論文を読んだり英語で論文を書くことは日本人にとっても普通のことなのでしょうが、人文系では、英語がかろうじて読める日本人研究者は多少いても、英語が書ける日本人研究者はほんのほんの一握りです。人文系の論文を英語で書くことは、理系の論文を英語で書くことよりもはるかに難しく、普通の日本人はそんなことに挑戦しようとは微塵も発想しないからです。しかし、それができなければ、世界的には存在しない研究者ということになってしまうことは理系と同じです。それでは、日本の大学の人文系分野のレベルが世界的には高くないように見えてしまうことは避けようがありません。

では、実際にレベルが低いのかそれともレベルが低く見えるだけなのかですが、これも単純な話ではないように思います。先ほど、日本の大学院教育の弊害で、日本人研究者は基礎的な知識を体系的に学んでいない場合が多いと述べましたが、そもそも何を基礎的な知識とみなしているかも日本と海外では全く違います。日本人は、特に人文系では、全ての知識体系を日本語で構築している場合がほとんどです。知識の体系そのものが、日本とそれ以外では全くの別世界だと言っていいと思うのです。そもそもほとんどの学問自体が明治期やそれ以前に西洋から入ってきたものですが、日本人が西洋から学ぶべき知識体系をそれなりに学び終わってしまった後は、日本の内輪だけで完全に独立した知識体系を国内で新たに作ってしまっているわけです。研究とは、先人が行った研究に新たな知識や考え方を付け足していくことが基本ですが、西洋が作った知識体系に日本人が日本語で新たな知識を付け足していった場合、その新たな知識は日本語だけで書かれているので、海外の知識人たちには届きません。その日本で付け足された知識の上にまた日本人が知識を付け足し、というように、どんどん日本にしか存在しない、世界から浮いた知識体系がつくられていったわけです。明治から第二次世界大戦前くらいまでの日本の知識人は、英語やドイツ語などを使いこなすことが当然でしたし、ほとんどの人たちが海外への留学経験がありましたが、これは、まだ西洋からの学習が一通り終わっていなかったからだと思います。戦後は、海外旅行が難しくなったことや、すでに日本語だけでかなりのことが学習可能な時代になっていたこともあり、かつて英語やドイツ語ができて当然だった知識人の状況が変わってきて、今度は年寄りであればあるほど外国語はからきしできない人が多いという状況に変わっていったのでした。日本の発展の基盤には、日本人の異様なほどの翻訳好きの文化があり、現代でも多くの翻訳本が出版されていますが、その翻訳好きが、逆に日本語だけで全てをすませることを可能としているせいで、日本を世界から浮いた存在にしている感も否めません。

しげは、外国語から日本語、特に英語から日本語への翻訳はすでに時代遅れなのではないかと思います。もちろん、しげだって翻訳ものは読みたいし、いつか何かの日本語訳を出版するかもしれないし、翻訳はいつの時代も歓迎されるべきものなのですが、それにしても、外国語から日本語への翻訳が、かつてほどの重要性を持ち続けているようには思えないのです。英語は原文が読めて当たり前の時代だからです。英語ができなければ大学院の受験資格さえ得られない時代ですし、英語は読めて当たり前です。その代わり、しげは、これからは日本語から外国語への翻訳の時代だと思います。先ほど、日本の研究は海外の研究と比べてレベルが低いのかどうかという問いがありましたが、もしかすると、平均すればやはり日本のレベルは低いかもしれません。でも、しげは、世界では全く知られていない優れた日本の研究者をたくさん知っています。そういう人たちの成し遂げたこと、考えてきたことを、世界にも発信していいと思うのです。総合するとどうかはわかりませんが、少なくとも一握りの研究者は、世界的に見てユニークな研究をしています。それなのに、彼らの業績は、世界的には全く存在していないことになっています。しげの専門の建築史の分野では、やはり方法論や研究作法の面では、平均をとれば、日本の研究者は海外の研究者に大きく劣っているでしょう。しかし、日本建築史に限定すれば、当然のことかもしれませんが、海外の研究より優れた研究が日本にたくさんあると思うのです。

このことが、しげがアメリカの大学院を選んだもうひとつの理由とも関わります。UWマディソンにいたとき、しげは、学内の小規模な研究の賞をいただいて、百人くらいの観客の前で発表しました。しげが日本の建築や芸術、文化について発表した機会は、そのほかにも授業内などで何度かあったのですが、それらを通して新たに知ったことは、しげが日本について話せば観客から拍手喝采を受けることはこれほどまでに簡単なのか、ということでした。しげやほかの日本人にとってはあまりに常識的なことであっても、アメリカにいるオーディエンスにとっては常識ではありません。そのことは意外と、特にしげの分野では、アカデミアでも変わりません。日本文学の研究者などは日本国外にも無数にいて、彼らの多くが、日本語の非ネイティブでありながら、卓越した日本語能力と知識を持ち合わせていて、日本人研究者より広い視野で優れた研究をしています。しかし、しげが専門としている日本建築史の分野では、卓越した日本語能力を駆使して英語で研究を発表している人は、現在世界にひとりもいないのではないかとしげは思っています。文学や美術史一般や政治学や経済学に比べれば、建築史はとてもマイナーな分野です。それもあって、日本語文献を読み込むきちんとした能力と、論文や本を書く英語力の双方を持ち合わせた優れた研究者が、いまのところ誰もいません。だからしげは、その最初の人になろうと思うのです。

しげは、アメリカの博士課程に行くという決断をしたことで、常人では耐えることのできない厳しい道を選んだと自負していると同時に、チートレベルに簡単な道を選んだとも思っています。日本について話したり書いたりして世界の人々を喜ばせることは、あまりにも簡単だからです。しげの英語の発音が多少悪いとかいうことは、何の問題にもなりません。海外の人たちは、日本建築やその他の日本文化について、知らないことが多すぎます。だけれども、多くの人が日本について並々ならぬ興味関心を持っています。だからこそ、しげのような研究者がその需要に応えられたらいいなと思います。もちろん、日本人の常識を英語で海外に紹介するだけでは、それはただの翻訳であって、研究ではありません。当然ながら、日本人も含めた全ての人たちにとって新しい知識を、英語で発信していくつもりです。アメリカの博士課程に行くということは、通常五年かそれ以上の期間をそれに捧げるということを意味します。一年間の交換留学ならば、海外へのちょっとした興味や好奇心で行く決心をできると思いますが、長期間の博士課程に行く決心をするには、それ以上の覚悟が必要です。当然ながら、アメリカの大学では口頭発表もライティングも全て英語でするわけなので、将来も英語を話し書くことによって発信していきたいと思っている人でなければ向かないと思います。そういう目標がある人には、これ以上ないほど良い練習の機会ですし、またそれ以上に、アメリカである必要はないにしても、将来グローバルな研究者になろうとする人にとって、海外の大学院に行くことは必須です。

次に最後の理由ですが、それは、博士というものが社会のなかでどのように受容されているかです。日本では、博士というのは、専門にとても詳しい人というポジティブな意味合い以上に、ヲタクで社会不適合者で使い道のない残念な人というイメージが大きいです。実際、博士まで取ると就職先は減ってしまうと一般的に言われていますし、大学でも企業でも自分の居場所が見つからず、最終的に自殺してしまう博士の人なども多いです。これは、世界的には、欧米だけでなくアジアの国々と比べてもあまりにも異様なことで、普通博士というのは企業でも大学でも重宝されるし、社会的にとても尊敬されています。英語では、博士を持っている人の名前にはDr.をつけて呼ばないといけないので、Mr.やMs.で呼んでしまっては失礼に当たります。しげはこんなことでは怒りませんが、人によっては不愉快に感じます。博士とはそれほどの重みのあるものです。日本ではしげのような経歴では、「いつまでも働かないで学生してる」と思われる場合がほとんどでしょうが、アメリカではPhD学生がそのような学生扱いを受けることはありません。PhDを取るという道が、ひとつの立派なキャリアの選択肢として社会的に認められているからです。大学院生は通常の会社員と同じかそれ以上のハードワークと責任感がなければ務まらないことが一般に認識されているため、職についていることと同様に扱われます。半分ジョークのようなものですが、大学院生はこの世で一番忙しいというのは決まり文句です。そもそも大学やアカデミアがこれ以上ないほどに「社会」そのものなので、大学院生が「社会に出たことがない」などという発想はありません。大学院生の大学での役割も日本とアメリカでは大きく違い、例えばアメリカでは、大学や学部によって違いますが、新しい教授を雇う際に、大学院生が委員会に加わり意見を言い、新しい教授の候補者たちと会って話し、最終的な投票権も持つことは普通です。上記の通り、日本とアメリカやその他の国とでは、同じ大学院でも全く別の世界なので、日本の大学院そのものが変わらなければ、日本での大学院の認識も変わらないと思います。

このことも理由のひとつとなって、アメリカの博士課程の学生は、日本とは比べ物にならないほど、経済的にも守られていることが多いです。これは、しげがアメリカの大学院を選んだ大きな動機です。これは実は、後からわかったしげの一番の誤解で、博士学生も所詮はただの学生であることを思い知らされることになったのですが、当時のしげは、アメリカの博士課程に行けばその時点で経済的に独立できると考えていたので、これはアメリカを選ぶにはとても大きな理由でした。このことについてはまた別の記事で述べますが、しげの事前の思い込みが実際は間違っていたのは、しげの分野のせいというのが一番の大きな理由だと思います。建築は日本でもアメリカでも、最もお金の集まらない分野なのです。テキサス大学群はアメリカで二番目に寄付金額の多い大学だと聞いていますが、それでも、全ての博士学生の経済を保証してくれてはいません。しげの知っている範囲では、イェール大学は、全ての大学院生が経済的に困らないことを保証するとウェブサイトに明記していました。なので、分野や大学によっては、しげの思い込みは思い込みではなく事実です。特に理系(いわゆるSTEM)の場合はどこの大学も予算が豊富だと思います。しげがアメリカの博士課程に進めば経済的に独立できると勘違いしていたのは、しげが日本語で読んだり日本人から聞いたりする情報が理系の学生についてのことのほうが圧倒的に多かったことが理由のひとつだと思います。人文系では、第一言語ではない言語の大学院に通う難易度が理系よりも圧倒的に高いですし、MBAなどを除いて、日本人によるアメリカの大学院の体験談に出会うことがほとんどありませんでした。実際には、アメリカ全体で見れば、世界トップレベルの大学や理系学生ばかりではないので、PhD学生は、学部生のときからの累計で、大学教授の年収よりも多いくらいの借金を抱えている人などもざらにいるようです。人文系でも、例えばいわゆる地域研究の分野などは、国家防衛に関わる分野なので予算が潤沢にあるようです。いずれにせよ、当時のしげは勘違いしていましたし、アメリカのほうが大学院生の社会的地位が高く、奨学金などの機会も断然充実していることは事実なので、これはしげがアメリカを目指すうえでとても大きな動機のうちのひとつでした。

日本では、医者や弁護士などが親が子供に将来ついてほしい、もしくは子供の結婚相手になってほしい職業の定番ですが、日本以外では、欧米だけでなく中国などのアジアの国々でも、大学教授がそのような職業のうちのひとつですし、博士学生は最も将来を嘱望される人たちのうちに属します。大学教授になることは、どこの国でもとても難しいと思いますが、大学教授になれない、もしくは目指さないとしても、博士号をとれば、企業に就職して、もしくは起業して成功する可能性が高いからです。しげは日本人の親のもとで日本で生まれたため、両親や祖父母、その他一部の友人や知り合いの感覚は日本のものなので、彼らの理解を得ることはとても難しいことに変わりはありませんが、それにしても、博士が馬鹿にされている国と尊敬されている国と、どちらで博士課程をしたほうがいいかは、しげにとって明らかでした。

たくさん理由を述べてきましたが、そのうちのいくつかは、別にアメリカでなくてもいいものです。実際、カナダでもイギリスでもオーストラリアでもどこでもいいのですが、たまたましげが最初に直接に体験した海外の大学がアメリカのUCデービスだったという巡り合わせが大きいです。また、日本だけでなくほかのどこの国と比べても、大学ランキングなどで見れば、レベルの高い大学はアメリカに一番多いと言えるでしょう。UWマディソンにいるときにこのようなことを考えて、アメリカの大学で博士課程に進学することに決めたのでした。将来も、アメリカでなくても良いにしても、基本的には海外の大学で研究者として働くつもりです。

今回は、これまでとは打って変わって、逆にアメリカの大学を褒めちぎってしまったのですが、これからもアメリカと日本の良い点と悪い点の双方について書いて、バランスを取っていきたいと思います。

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